2017年5月16日火曜日

主観的でもいいんだよ

ボルダリングのグレード


ずいぶん前になりますが、ミキペディアさんがボルダリングのグレードについて書いて、とても面白かったです。先日、Noelと名付けたシンクラックPを登ったことで、グレードについて考えることがあったので、今更ながら取り上げてみたいと思います。

ミキペディア方式


ボルダリングのグレードの決定方法~前編:グレードの定義、前提となる考え~
 ボルダリングのグレードの決定方法~後編:難易度の構成要素~

グレードの決定方法に関するミキペディアさんの考え方は、僕がこれまで触れたことのないもので、とても興味深いものでした(と言っても、僕が触れたことがないだけで、みんなそう考えていたのかもしれないし、あるいはセッターの方々の間では共通の理解なのかもしれませんが)。その考え方は、以下の一節に端的に現れています。

理想的には「全クライマーがこの課題にチャレンジしたら何%のクライマーが完登できるか(もっと理想的には、合わせてアテンプト数がどのくらいになりそうか)」という思考実験の元に難しさを決めるべきだと思います。

非常にわかりやすい、極めて客観的な決定方法ですね。ちなみにこれは、ボルダリングのグレードに関する見解ですが、スポーツ・ルートやトラッド・ルートでも同じことがいえるでしょう(たぶん)。ということで、この見解に立って、Noelのグレードを考えてみたいと思います。

Noelのグレード


ここに書いた通り、Noelのグレードは5.12bとしています。これは、センチュリー・フォー・カラーズと同じくらいの難易度だからです。これは、僕が感じる難易度です。

では、ミキペディア方式ではどうなるか?

Noelの核心部は出だしで、フィンガーティップのレイバックからの第一関節ジャムが2発続きます。特に1発目の第一関節ジャムは、人差し指がギリギリ入るサイズです。僕の指はとても薄いです。普通の太さの指の人は、ジャミングできません。ここに指が入るクライマーは、男性では10人に1人もいないはずです。指が入らない人にとっては、ひたすらフィンガーティップのレイバックで、フットホールドもなく、超難しいはずです。しかも、プロテクションもとれず、短いけれども下地は悪いので、超危険です。他方、指の細い女性ならどうかというと、背の低い人は僕がスタート・ホールドとしているところに手が届きません。僕の身長は177cmで、僕の腕は日本人としては結構長いです。背の低い人は、スタートホールドに到達するまでに、さらに厳しいムーブが加わることになります。

このことからすると、Noelを登れる人はとても少ないはずです。ミキペディア方式を採用すれば、5.13は堅いでしょう。クラックとしてはもはや日本国内にはほとんど存在しないレベルのグレードです。

では、Noelに5.13というグレードをつけると、何が起こるでしょう?

僕と同じ身体的条件を持つ人にとっては、5.13というグレードを期待して登りに行ったら、実際には5.12b程度で、期待はずれと思うことでしょう。指が太い人は、5.13だと思って登りに行ったら、実際には5.14相当であったり、あるいは不可能であったり。背の低い人にとっても同様です。背が低くて指の太い人にとっては、何が何だかわからないことでしょう。いずれにせよ、5.13という数字が意味を持つ人は一人もいません。

グレードはクライマーに難易度を伝えるためにある(と僕は思っている)のに、5.13という数字は、誰にとっても正しく難易度を伝えることのない、全く意味のない数字です。客観的なグレードは、時になんの意味もない数字になってしまいます。

グレードが主観的とはどういう意味か?


ではなぜこのような事態が起こるのか。それは、グレードは客観的でなければならないという観念があるからだと思います。そして、グレードは客観的でなければならないという観念の背後にあるのは、グレードは主観的であってはならないという観念です。このことは、ミキペディアさんのブログを受けてのTwitterでのやり取りでも明らかになりました。



それでは、グレードが主観的であるとは、どういう意味なのでしょうか?

グレードが客観的であるべきと考える見解は、グレードが主観的であるとは、直感でグレードをつけることや、合理的な根拠を持たずにグレードをつけることを意味すると考えているようです。グレードに「主観が入る」という表現は、このことの現れです。

しかし、「主観的」には別の意味もあります。おそらく、グレードの主観/客観論争は英語圏から来ているものです。主観的の原語はsubjective。subjectiveには、「気分や好みに依拠する」という意味の他に、「subject(=主体)に関する」という意味もあるます。主体とは、ここでは個々のクライマーです。主観的なグレードとは、クライマーと課題やルートとの関係性に付けられたグレードと理解することもできます。身長170cm以上の人にとっては5.10で、それ以下の人にとっては5.10、といった丁寧な説明がなされた「主観的な」グレードが付されたトポが、かつてありました。間をとって5.10+という表記よりも、そのような「主観的な」グレードの方が、情報として価値があることは疑いようがありません。クラック・クライミングの場合にはその傾向はさらに顕著で、指の細さや手のひらの厚さで難易度は大きく変わってしまいます。グレードは人によって異なる、クラック・クライミングでは常識かもしれません(僕は経験が少ない上に、クラック・クライマーと話したことがあまりないのでよくわかりませんけど)。

客観志向の意味


翻ってみるに、ミキペディアさんがなぜグレードの客観性にこだわるのか。それは、ジムの課題としては、身体的特徴によって著しく難易度が異なる課題は良くないと考えられるからではないでしょうか(実際はそうなってない、いい加減なジムもありますけど)。誰が登っても同じような難易度に感じる課題を目指し、それが実現されるならば、「主体に関する」主観的なグレードと、登れるクライマーの割合を指標とする客観的なグレードは、一致します。そこでは、客観的なグレードは情報として価値を持ちます。

セッターによる客観的なグレードの志向は、誰にとっても同じ(くらいの)難易度になる課題を作って提供するという、セッターの意気込みの現れとみるべきでしょう。ありがたい限りです。

あ、絵を描くのを忘れた。

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